やまだのーと。

山田の感じたこと、知ったこと、気付いたことのメモ書き。

日常から冗長を切り取りつなぎ合わせると物語になるのかもしれない話とお気に入りの本屋さん。

私は本を読むことが好きだ。特に小説が好きだ。物語が好きだ。

それはきっと、高校時代に友達がおらず、昼休みも、休み時間も、放課後も、ずっと隣にいて、一緒に過ごしたのが本だったからだろう。あの頃の山田少年は、現実で満喫できないでいた青春を、小説の中で過ごしていたのだ。登場人物に感情移入して、様々な時代で、立場で、通常の畢生を超える経験をしてきた。だからこそ、少年は人生に退屈を感じていたのだと思う。

事実は小説より奇なりとはいうが、実際のところ、そこまで奇なる人生を歩めるわけではない。小説というのは日常の中の繰り返される冗長が省略されている。全ての日常を始まりから終わりまで最後まで完全に描写しているわけではない。けれど、人は自分の人生を一瞬の省略も許すことなく体感し続けねばならない。そういった冗長を惜しみなく削り、ハイライトしているのが物語の本質だ。

山田少年は、山田青年になり、それなりに紆余曲折あり、今の生活をしている。過去を振り返り人に語ると、「漫画みたいな人生だね」と言われることもあるが、それはきっと物語たる部分のみを抜粋して山田という人物を語るからだ。そこに日常は無いし、だからこそ濃度が増す。実際に語りの中の日々に物語性があったかと自身に問うと、決して自分が物語の中にいたとは思えぬのだ。省略し、編集し、要点のみを物語ることで初めて昇華するのだ。

であれば、今も誰しも、何かしらの物語の中にいるのだ。人の数だけ物語があると、誰かが言っていた。誰の言葉だったかと思い、ググッてみると「抱いた女の数だけ物語がある」というブログが検索結果の1位に浮上した。そうかもしれないが、そうじゃない。まあつまり誰かがはっきりと明言した言葉ではなさそうだ。しかし、それでも多くの人の心に残る言葉であることは事実だ。その上で一人一つの物語で、畢生をかけて作り上げていくのだとしたら、小説を読み、物語を吸収していていくというのは、架空雨の他者の人生を疑似体験していくことだ。

人間は欲張りだ。「あの時、ああしていたら」とか「他の人生があったのでは」とか、色々と想像してしまう。私だってそうだ。もう一度人生を最初から歩み直すとしたら、きっとこの人生を歩み直そうなどとは思わないはずだ。それはたとえ今の人生に満足していても、好奇心から違う道を歩いてしまいたくなるだろう。だが、当然のごとくそれは不可能なわけだから、物語を求めるのだ。

私は今、物語を求めるのに気に入っている店がある。

鳥居の下にある小さな古本屋さん。私より歳が2つか3つ上のお兄さんが店主。

日に焼けて古臭いが小綺麗な本が山積みになったその店内で、お兄さんと話すのがなによりの楽しみだ。

古本というのは一度、もしくは何度も誰かが手にとった本だ。誰かに親しまれた物語だ。それをその古風な書店の中で探し求めるのが楽しみなのだ。