やまだのーと。

山田の感じたこと、知ったこと、気付いたことのメモ書き。

匿名ブログの1日のPV数がこのブログの合計PVを越えてしまっている件について

ブログの本質はPVを稼ぐことではないと考えています。どうも山田です。

私は今、この(一応)実名ブログと匿名ブログを2つ運営しています。

記事の書き方等でかなり差別化していまして、

結果として匿名ブログの1日のPV数が実名ブログ(これ)の合計PVを大幅に超えるというなんとも言えない結果が出ています。

 

この二つのブログの特徴は、

【実名】

・会社バレ、家族バレしても問題ない差し障りのないメモ

SEOを考えず好き勝手駄文を書き連ねる内容。テーマ設定も適当。

・校正さえしない

・思い立った時に勢いで書く

 

【匿名ブログ】

・匿名だからこそ書ける時事問題への持論(ニュースサイト等の引用有り)。

ライフハックや技術的な記事も多数。話題性を意識。

・何度も読み返し加筆修正

・週に2~3回ほど更新

 

 

まあ、そりゃアクセスに大きな差が出るわけです。

特に更新頻度は大きいですね。アクセスページを分析すると、

4割ほどは過去記事が稼いでいます。総数で勝ってるので、貯蓄は武器です。

またTwitterリツイートやいいねが付き続けている話題を掘り下げて記事にしているので、

そいつらが着実にアクセスを稼いでいる傾向にもあります。

SNS等での拡散はしておらず、純粋に検索エンジンからの流入数です。

あまりPVを気にしませんし、非営利なのでアナリティクスも(導入はしていますが)ほとんど見ていませんが、

一度しっかり分析しても面白いかなーと思いました。

ハロウィンに求められている非日常生

10月31日はハロウィンでした。

29日(土)からの3日間、

熊本では下通を中心に中心市街地で仮装した老若男女が目につきました。

数年前までは私も結構気合いを入れた仮装をして街を練り歩いていました。

 

ことしもハロウィンのイベントに誘われましたが、仮装はせずにカメラを首からぶら下げて同伴したくらいです。仮想するのは好きなんですが、なんか違うと思ったからです。

 

品が無いなあと思うものの、それで街の飲食店の売り上げが上がったり、賑わいにあふれるのは良いことだと思います。ゴミが散るとか言いますが、市民のモラルの低下はハロウィンに限ったことではなく、藤崎宮の例大祭などの神事(あれはあれで近年問題ありだと思いますが)でもポイ捨ては多いです。

 

もともとハロウィンはそもそもハロウィンの起源は収穫祭であり、悪霊を追い払う宗教行事でもありました。後者は日本でいうところの節分の豆まきみたいな感じですね。

それが、アメリカで子どもが仮装して近所の家を回って「お菓くれ、くれないといたずらするぞ」とお菓子をねだる民間行事として定着しました。

 

日本ではご存知の通り、収穫祭や悪魔祓いの意味合いは無いですし、仮想するのも子どもより大人の方が多い有様です。クリスマスも然り、これが日本式なので定着するだけの理由があったわけですから、私はそれで良いと思います。

きっと、人は日常から離れて騒ぐ場所を求めてるんじゃないかなあと思うんです。

同じことの繰り返し、仕事や人付き合いのストレスをどこかで発散したいけれど、その手段が分からない。そんな人達がわーっと騒げる場としてハロウィンって適切なんじゃないかな、と思います。

 

「ハロウィンって日本の習慣じゃないし」

「騒いじゃって馬鹿みたい」

「ゴミばっかり散らかして」

 

と、毎年のように批判の声もありますが、きっとそのような人たちはそんな現実逃避の場を必要としていないか、そこに自分自身が踏み込むことでストレス発散できるタイプの人では無いのかな、と思います。

 

商業化の観点もありますが、結局社会の変化で人の求める所も移り変わってきているのです。地域のお祭りやちょっとした会合でなく、大々的に誰が企画したでもない有象無象の集合体に埋もれ、その中で非日常を体験することがフラストレーションの発散につながっているのでは無いでしょうか。

 

思い切り非日常を体験できるイベントがあれば、流行るかもしれませんね。

何か面白いことできないでしょうか。

恋愛と結婚。いとこに子どもが生まれた話。

今日、従兄弟に第一子となる娘が生まれました。
親族のライングループに写真が投稿され、みんなお祭騒ぎ。
そんな中、母からラインでメッセージが飛んできました。

「早く結婚して。いとこほしい」

このババアは何をほざいてるんだと思いましたが、
おそらく小学6年生の姪っ子が送ってきたものであるというのはすぐにわかりました。

可愛い、可愛すぎるぞこの姪。

「パパ、ママ、弟か妹が欲しい」と言われた親の気持ちがなんとなくわかりました。
でも、ごめんよ、結婚する予定もないし、相手もいないんだ。
結婚願望はあるし、子供も好きなのですが、どちらも相手がいなければどうしようもない話です。

私も今年26歳、結婚してもおかしくないし、周りも割りと結婚しはじめています。
7歳上の兄が結婚したのが19歳の頃。晩婚化は進んでいるようです。
姪も12歳になりました。私が実家を離れた時にはまだ保育園に通っていた彼女も来年は中学生です。
あんなに小さくて可愛かったのに今では身長が165cmもあります。どうしてこうなった。

例えば私が明日出会った女の子と即日結婚して即日妊娠させたとしても、子供が生まれるのは10カ月後。
その頃には姪も12歳の中学生です。それだけ歳が離れていても従兄弟って存在は嬉しいのでしょうか。
私が一番下だからわかりません。


この歳になって、「恋愛って難しいな」と感じています。学生時代はよくあれだけ必死になっていたなと思います。あの頃は目の前の恋に必死で一生懸命に人を好きなっていた気がします。そんな気持のまま結婚できた人たちはきっと、とても幸せなんでしょう。
社会人になると、この歳になると、どうしても結婚って意識します。恋愛するときもかつてのような情熱をもてなくなり、どこか打算的な恋愛をしがちなのかもしれません。
どこかで、もうそれ以外の全てを投げ出しても良いくらい人を好きになることはないだろうと、自分自身の恋愛を諦めてさえいました。
身の回りに素敵な女の子がいなかったわけではありませんが、恋愛は他人事のような感覚。それでもまあいつかどこかで、なんとなーく良いなって思う人と付き合って、なんとなーく好きだなあってなって、なんとなーく結婚することになるんだろうなとそれがきっと自然な流れだろうと思っていました。
だからこそ、ふいに自分が目の前の女性に恋をしていると気付いて、どうして良いかわからなくなって、それこそ本当に学生のころのように好きで好きでしょうがなくて、論理的に物事を考えられなくなって、勢いだけで告白して振られたりするわけですが。
久しぶりにそんな経験をしてしまったせいで、ここ数年頭の中にあったなんとなーくの恋愛計画が前提から覆ってしまったわけです。

そんな時に「早く結婚して」と言ってくる姪っ子はなんと鬼畜なんでしょう。何も知らないって怖い!

身の回りの誰かが結婚したり、親になったりするたびに考えてしまうのですが、最近その頻度が多いのはそれだけ私を含め、周囲も適齢期に近づいているのでしょう。怖い!

かつて片思いしてた女の子の結婚式二次会に誘われて複雑な心境になった山田メモ。

「恋をすると一途です」と自称すると、どうしてもストーカーちっくであったり、依存症な気がしてなりません。

最近、人と恋愛の話をすることが非常に少なくなった気がします。

なんだか、いまさら「あの子のことが好きだ」なんて話をするような気持ちにはなれませんし、

周りも結婚とかしてる人間が増えて、惚れた腫れたの話はいつの間にか減ったように思います。

あ。私に友達がいないからというのもあるかもしれません、大いに。

あとは恋愛に必死になるようなカロリーがないんですよね、多分。

学生の頃のようなイベントもあまりあるわけではありませんし。

朝から食パン咥えて曲がり角全力疾走とかしてみると良いのでしょうか。

 

さて、なんでこんなことを急に言い出したかといと、

大学時代にずっと片思いをしていた子がいます。

ずっと一緒にいて、周りからも関係を疑われるほどに仲良しだったのですが、

3度告白して3度振られました。

その子が結婚し、その式の二次会に招待されました(本人から)。

さすがに式には呼ばれませんでしたが、私の周りも呼ばれてないようなのであれですが(というか共通の友人の多くは結婚の事実さえ知らなかった様子)。

大学時代の友人はこの文面だけで「ああ、あの子のことか」と分かるほどかと思います。

今はもうそういう感情はないですが、心境としては複雑ですよね。

まあ、そういうの気にしない子だから恋敗れても一緒にいれたのは事実ですが。

私もすでにあの子とどうこうとは思っていませんし、旦那も知ってる人でアル中なところ以外は概ねいい人ですし。

 

あの頃はなんで不器用ながらあんな風に恋ができたのだろうかと思います。

少しは大人になって、女の人もたくさん知って、自然と大人の恋愛が出来るようになるのかと思っていましたが、決してそういうわけではなく。

恋愛のような初々しい世界からはすこし離れて行っていまってるような気さえします。

 

昔から、小説を読むのが好きで、ミステリであれSFであれファンタジーであれ、恋愛要素というのは絡んできやすく、そんなのにあこがれて生きてしまったから現実とのギャップで前に進めないのでしょう。

全てを癒やす恋は無く。異性を落とす出来事は無く。心を切り裂く悲劇は無く。愛する者を手に入れる秘術は無く。

そんな世界で恋するからこそ、俺達は物語を創っていくんです。(オマージュ)

全てを理解し合える人なんていませんし、トントン拍子で進むことも、絶望からささいなきっかけで手を引いてくれる人も、平等な愛もなにも存在しません。

現実にあるのはただただ、冗長に満ちた日情だけです。

過去の恋愛とかって幸せであれ不幸であれ、どうしても美化されがちですが。

そこにすがるだけではきっと前向きな恋なんて出来ませんぜと。

 

恋話飲み会という名の飲み会に誘われて、

新手の合コンか何かかと思ったら、普通の飲み会で、

開始10分で下ネタしか出なくなってて、おとなになったなあ、と実感した山田でした。

友人の恋に悩むツイートを見て私が思った素直な感想。

「ハンバートがドロレスに恋した気持がよく分かる」

友人がそう、ツイートしてるのを見ました。

とても物憂げな雰囲気で、きっと報われない恋でもしてしまったのかと思いました。

しかし、どこかで聞いたことあるんです。

ハンバートと、ドロレス。

そう、ある文学作品の主人公とヒロインなのです。

その本はウラジーミル・ナボコフというロシア人の著したもので、

ある意味では日本人にもとても有名な本です。

それこそ、この本のタイトルがある言葉の語源になっているほどですから。

おそらく、ハンバート・ハンバートとドロレス・ヘイズのことだろうと思います。

その本の名は「ロリータ」。

wikipedeiaでは、このように説明されています。

少女性愛者ハンバート・ハンバートと、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズとの関係を描いた長編で、全体はハンバートの手記の形を取っている。*1

さて、ではここで、私の友人のツイートをもう一度振り返ってみましょう。

 「ハンバートがドロレスに恋した気持がよく分かる」

急に友人にある疑惑が浮上してきました。

これは、彼と友人を続けていく上でおさえて置かなければならない重要なポイントです。

つまり、友人は幼い少女に恋をしてしまった可能性があるということです。

「ただのロリコンじゃねーか!!」

と切り捨てるのは簡単です。しかし、友人です。そういうわけには行きません。

私だって幼稚園児(現在小学生)にいきなりほっぺたにキスをされて「ママには内緒だよ」と微笑まれ、ときめきそうになった事があります。

すぐに母親に「あの子は男たらしになるぞ…」と忠告しましたが。

しかし私は違います。断じて、断じてロリコンではありません。

しかし、私の友人が今感じている感情が私が体験したのと同程度の事故的なものなのか、

それとも本当の本当に少女性愛者として悩んでいるのか。

後者であれば由々しき問題です。

個人的には本人の自由だとは思いますが、社会的に。

これが「幼女超かわいい」とか「◯◯たんハァハァ」とかならネタ的なツイートであったならば、きもいの一言で済ませれてたのですが、

「ハンバートがドロレスに恋した気持がよく分かる」

です。これは一見してロリータを読んだことがなければどんな気持ちかわかりません。

しかも、ドロレス・ヘイズは小説の中でその名前が出てきたのは数えるほどしかなかったと記憶しています。

ずっと愛称である「ロリータ」と呼ばれいましたから。

もしかすると、偶然ロリータを読んだばかりで、感想を書いただけかもしれもせんが、

それはそれで何かに目覚めていそうでまずいです。

そもそも友人は漫画ばかりで文学を愉しむようなタイプの人間ではありません。

 

色々と考えていても仕方ありません。本人に聞いてみることにします。

 

 

「お前、その、幼女しか愛せないの?」

 

『は?お前とは違うし』

 

「いやだって、ほら、ツイッターにハンバートとドロレスにうんぬんツイートしてたろ」

 

『あぁ?…あれは知り合いに聞いた話きいて確かにそうだと思って』

 

「どういう話きいたの?」

 

『少年期好きだった子を忘れられずに同じような人しか好きになれない男の話じゃないの?めっちゃ共感したんだけど』

 

「ロリータって小説の登場人物で少女性愛の話なんだけどな」

 

と真実を友人に教えると、電話を切ったあとツイートは削除されていました。

後日友人とあったときに詳しく話を聞くと、その話を友人に話をした相手は、

絶対に確信犯だと思いました。

恋話から恋愛相談のようになり、

色白のリケジョに恋をしたけど、その子は好きなタイプが「知的な男性」ということで、自分は違うかもしれないと話したらしい。

「小学生の頃、好きになった色白の女の子が転校してから、色白の子しか好きになれない」と話したらしい。その話は私も聞いたことがありました。

すると、件の話になり、ものすごく共感したところ、

「文学からの引用だからツイートしてみると知的に見えるかも」とまんまと載せられ言われるがままの文面でツイートしたらしいです。

知ってはいたがこいつは馬鹿です。

こういうアホないたずらにまんまとやられたこいつは本当に馬鹿です。

実際の会話の流れはどうか知らないけれど不自然すぎる流れですし。

 

 

数ヶ月前の話なのですが、通勤中に女子中学生を眺めていたら事故りそうになった話をしたところロリコン扱いされてふと思い出しましたので書きました。

最後に念のため言っておきますが、やはり私はロリコンではありません。

熊本地震から5カ月経ち、南阿蘇村立野地区に足を踏み入れた。

熊本地震後、益城町西原村嘉島町や御船町には何度か足を運んだが、南阿蘇村には機会がなく、足を運んでいなかった。

ふとしたきっかけで、南阿蘇村立野地区に足を運ぶことになった。まさかの原付である。googlemapで言うとこの辺り。

阿蘇大橋が崩落したことに加え、豪雨により土砂崩れが続き、先に道は無く、途中で警備員さんに折り返すように言われた。周囲に見える山肌は、まるで鋭い詰めで引き裂かれたかのようにえぐれていた。古くからそこにある原生林も、深く根を張った木々が崩れ落ちていた。

そして何より、驚いたのは、水が通っていないのだ。震災から5カ月。私の住む熊本市内は復旧も進み、ほとんど震災以前と変わらない生活が出来るようになった。まさか車で(私は原付だが)1時間ほどの場所で、未だにライフラインが止まっているとは思いもしなかった。

現地の方の案内で、崩落した間際まで立ち入ることができた。f:id:yamadanote:20160920173359j:plain

この場所に阿蘇大橋がかかっていた。あと一歩進んだら転落する位置で、案内人も「ここもあと何度か雨が降ると残っているかどうか…崩れるでしょうねえ」と話していた。この崩れた辺りには震災前は水田があったという。

 

その後、案内されたのが鉄砲水が走ったと言われる、新所地区だ。

「この辺は地元の人間じゃないと知らないから、あんまりマスコミも報道しない」

と話してくれた。

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橋の下のトンネルだが、壁に泥が付着している。ここまで水が迫ってきたということだ。流れ着いた日用品が散乱したまま、片付けられることもない。

周辺を散策する中で感じたのは、本当に震災のあとから時間が止まっているのだということ。何も進んでいないのだ。

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倒壊した家屋の下に、こんお5カ月ずっとそのままにされれいる自動車があった。

水に打たれたまま、泥が付着し放置されている。水は未だに通っていないのに、

水により苦しまされた跡がしっかりと残っている。車を出すには解体作業から始めなければならないが、その目処さえ経っていない。

そもそも、車ももう取り出してどうこうというレベルではないだろうが。

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民家の1階部分には土砂が流れ込み、半分ほどの高さまで埋まっている。この民家は震災前にリフォームしたばかりだったという。

濁流は全て飲み込み、流れていった。f:id:yamadanote:20160920173352j:plain

 

鉄砲水が走り去った跡は何も残っていなかった。隣の家は大きな損傷は無かったが、少しの位置の差で家は自然に戻ってしまった。奥に見える山肌も抉れ、崩れ落ち、大地が顔を出している。

 

5カ月だ。震災から、5カ月。

正直、熊本市内にいると、もう過去のことになりつつある。余震は続いているが、本当に以前と変わらない生活をしているのだ。

あの非日常はすでにどこかに行ってしまったのだ。熊本市内の人間は大多数がそうだろう。津波で流されたわけではない。原発が暴走したわけでもない。火災で燃えたわけでも、何百人も何千人も、何万人も命を落としたとか、そんな絶望的な悲劇が起こったわけでもない。

だから、人は忘れてしまう。あの二度の大揺れを身を持って感じた私たちでさえ、あの日のことをまるで夢のように思うのだ。だのに、全国報道が止まったとか、もう忘れられているとか、そんなことを言っても当然だと思う。

しかし、この地に足を踏み入れて、決して終わっていないことを思い知る。

かといって、私にできることは何もない。国や県の力でもどうしようもないのだ。

だからと言って、見ないフリは出来ない。忘れないように、しっかりと現状を認識して、忘れてないよ、見捨ててないよと、届かなくても思っていたい。

また訪れます、近いうちに。

 

 

 

 

日常から冗長を切り取りつなぎ合わせると物語になるのかもしれない話とお気に入りの本屋さん。

私は本を読むことが好きだ。特に小説が好きだ。物語が好きだ。

それはきっと、高校時代に友達がおらず、昼休みも、休み時間も、放課後も、ずっと隣にいて、一緒に過ごしたのが本だったからだろう。あの頃の山田少年は、現実で満喫できないでいた青春を、小説の中で過ごしていたのだ。登場人物に感情移入して、様々な時代で、立場で、通常の畢生を超える経験をしてきた。だからこそ、少年は人生に退屈を感じていたのだと思う。

事実は小説より奇なりとはいうが、実際のところ、そこまで奇なる人生を歩めるわけではない。小説というのは日常の中の繰り返される冗長が省略されている。全ての日常を始まりから終わりまで最後まで完全に描写しているわけではない。けれど、人は自分の人生を一瞬の省略も許すことなく体感し続けねばならない。そういった冗長を惜しみなく削り、ハイライトしているのが物語の本質だ。

山田少年は、山田青年になり、それなりに紆余曲折あり、今の生活をしている。過去を振り返り人に語ると、「漫画みたいな人生だね」と言われることもあるが、それはきっと物語たる部分のみを抜粋して山田という人物を語るからだ。そこに日常は無いし、だからこそ濃度が増す。実際に語りの中の日々に物語性があったかと自身に問うと、決して自分が物語の中にいたとは思えぬのだ。省略し、編集し、要点のみを物語ることで初めて昇華するのだ。

であれば、今も誰しも、何かしらの物語の中にいるのだ。人の数だけ物語があると、誰かが言っていた。誰の言葉だったかと思い、ググッてみると「抱いた女の数だけ物語がある」というブログが検索結果の1位に浮上した。そうかもしれないが、そうじゃない。まあつまり誰かがはっきりと明言した言葉ではなさそうだ。しかし、それでも多くの人の心に残る言葉であることは事実だ。その上で一人一つの物語で、畢生をかけて作り上げていくのだとしたら、小説を読み、物語を吸収していていくというのは、架空雨の他者の人生を疑似体験していくことだ。

人間は欲張りだ。「あの時、ああしていたら」とか「他の人生があったのでは」とか、色々と想像してしまう。私だってそうだ。もう一度人生を最初から歩み直すとしたら、きっとこの人生を歩み直そうなどとは思わないはずだ。それはたとえ今の人生に満足していても、好奇心から違う道を歩いてしまいたくなるだろう。だが、当然のごとくそれは不可能なわけだから、物語を求めるのだ。

私は今、物語を求めるのに気に入っている店がある。

鳥居の下にある小さな古本屋さん。私より歳が2つか3つ上のお兄さんが店主。

日に焼けて古臭いが小綺麗な本が山積みになったその店内で、お兄さんと話すのがなによりの楽しみだ。

古本というのは一度、もしくは何度も誰かが手にとった本だ。誰かに親しまれた物語だ。それをその古風な書店の中で探し求めるのが楽しみなのだ。